大河ドラマ「青天を衝け」渋沢栄一の生涯について

今年のNHK大河ドラマは「青天を衝け」です。昨年は熱心に見ていたのですが、渋沢栄一にはまったく関心がないどころか、胡散臭い人物のように思えて、ドラマは見ないことに決めていました。

なぜ渋沢栄一のイメージが悪いかというと、実は私の家の近くに養育院があり、幼稚園の頃からその庭で遊んでいました。その公園のような庭の中には池があり、そばに立派な銅像が立っていました。その銅像の人物が渋沢栄一だったのです。私は物心ついた後でも、その人物が誰かは知ろうともしませんでしたが、お金持ちで、あちこちに自分の銅像を建てている人物と聞いていたので、ろくでもない人間であると思っていました。そして、大学生のころになって、そのろくでもない人間が渋沢栄一であるとわかったのです。

今度の新しい一万円札が渋沢栄一になると聞いて、「あぁ、もう一万円札も終わりか」と思いましした。大河ドラマ渋沢栄一を取り上げると聞いて、見てやるものかと思いました。そして、それからもう半年が過ぎたのですが、先日、ついに大河ドラマ「青天を衝け」を見てしまいました。「桜田門外の変」のところです。井伊直弼に興味があったので、彼がどういう風に殺されるのか確認したいので番組を見たということです。別に渋沢栄一に興味があったわけではありません。しかし、そのドラマを見て、やや驚きました。私は渋沢栄一は明治以降活躍した人物だとばっかり思っていました。ところが、そのドラマによると幕末に、すでに勤王の志士として立ち上がっていたのです。ドラマでは私の全く知らない渋沢栄一青年が描かれていて、私の無知蒙昧を思い知らされました。「学校の教科書には書かれていなかったぞ」という思いと、「その後の学びのなかでも渋沢栄一に触れる本に出合わなかった」という思いが湧いてきました。私は歴史の専門家ではありませんが、一応、日本史、世界史に関心を持ち、ある程度の本は読んできたつもりです。その中で、渋沢栄一の名前は知っていますが、彼がどういう人物かについては「徳川慶喜のお気に入り」というくらいのことしか知りませんでした。ですから、当然幕臣であるとばかり思い込んでいました。しかし、実際はだいぶ違うということにはじめて気が付き、それ以降大河ドラマを見るようにして、渋沢栄一についても学びなおすことにしました。

この学びは現在進行形ですが、当初思った以上の反省をさせられています。私の歴史観は、勤王の志士の立場からの情報が多かったので、明治政府善、江戸幕府悪という発想が強いものでした。しかし、渋沢の生涯を少し学びなおしただけでも、従来の明治政府の立場からの歴史観には修正が必要であると思うようになりました。「歴史は勝者が作る」と聞きましたが、正しくは「歴史書は勝者が作る」ではないでしょうか。勝者に都合のようように書き換えられて歴史書が作られるのです。歴史的事実はそう単純ではありません。勝者・敗者、そして、渋沢は勤王の志士として立ち上がった過去があるので、敗者でもなく、第3の立場の人物になりますが、歴史は多面的に理解しなければならないことを教えられました。

なお、渋沢栄一が作った養育院は現在健康長寿医療センターとなり、老人医療の地域拠点として重要な働きをしています。公園のような庭は今でも病院の入り口横にあり、掃除もいき届いています。そして、渋沢栄一銅像は昔の場所に、昔のままそびえています。彼によって多くの貧しい子供たちが助けられたことを忘れてはいけませんね。