アメリカのイラン攻撃
2月28日にアメリカのイラン攻撃が始まりました。ジャーナリストではないので、正確な情報である保証はありませんが、私の感想を書いておきます。
私はもともとトランプ支持者であり、彼のアメリカでの政治改革を良しとし、うらやましく思っていました。国内の多くの反対にもかかわらず信念を貫き、アメリカを再び偉大な国家にしようという熱意が素晴らしいと思っていました。しかし、昨今の関税問題で、トランプが各国に脅しをかけるような発言を繰り返すのを見て、脅しを手段にする政治はとても悲しいなと感じるようになりました。国際社会は人間関係と同じで、信義と信頼に基づくものであるべきです。自国を偉大にするのは良いのですが他の国も偉大になることを許さなければなりません。自国の利益を優先するのはある程度よいのですが、他国を破滅させるような不利益を与えてはならないのではないでしょうか。なぜなら、自国の繁栄は世界全体の繁栄に支えられているからです。そういう考えなので、トランプの関税政策をめぐる発言にはがっかりしていました。
それに加えて今回のイラク戦争の始まりがありました。いくら独裁国家であろうとも、他国の指導者を宣戦布告もなく殺害するのは殺人と同じであって、倫理上許されることではありません。私は国際法というものについてはまったく不信感を持っているので、国際法に違反しているかどうかはあまり問題ではありません。国際法より上の次元にある倫理というものがあるのではないでしょうか。
もっとも、戦国時代にはそういう倫理はありませんでした。今は戦国時代なのでしょうか。時代は逆戻りしているようです。そういう時代であるならトランプへの非難は意味がありません。しかし、戦略としての是非は問われることになるでしょう。戦国時代なら結果ですべては決まります。今回の戦争がアメリカという国に利益をもたらし、アメリカの国内選挙で勝利しなければなりません。はたしてどうなるかは今年に秋には明らかになるでしょう。
今回の戦争で明らかになったのは、日本国憲法の前文が絵空事であること、そして、国連がまったく機能しないことです。アメリカが世界一の軍事的超大国ですから、安易に批判するわけにはいきません。イラン側にも独裁とか、人々を抑圧・弾圧しているという問題があります。しかし、イランには議会もあるし、選挙もあるのです。問題はあるにしても、指導者を爆殺するほどの悪辣な国なのでしょうか。アメリカ人の倫理観のなさにはあきれてしまいます。
今後は100年前の時代にもどって、こういう世界であるということを前提に各国は動いていくことになるでしょう。日本政府もまたアメリカへの追従は表面だけにとどめて、実質的にはジャパンファースト、日本の国益を最優先にする政策に舵をきるべきです。そのためには日本は日本人の手で守るということを大原則として、憲法9条の改正をすることから始めなければなりません。
立憲・公明の「新党結成」について
政治素人の私が政治について発言するわけですからたいした内容ではありません。
立憲・公明の選挙協力はありだろうと思っていましたが、まさか新党結成とは思い切ったことをするものです。これがうまくいけば政局はひっくり返ります。
今のところ、高市政権の支持率は高いので、ひっくり返るほどになるかどうかは未定ですが、数字の上ではひっくり返る可能性があります。ただ、立憲の内部に新党結成への批判があるし、支持者も乗ってこない可能性があります。また、公明党の支持率も下がりつつあるし、今までの公明党の支持者の中には自民党支持者もいるわけですから、公明票のすべてが新党に向かうわけではないでしょう。ですから、選挙の結果は読めません。
参政党や日本保守党の支持者も一定数残っているし、それらの票は自民へは行かないでしょうから、たとえわずかな票であるとは言え、自民党にとっての不安材料はたくさんあります。やってみなければ分からないが結論です。
ただし、その先はさらに問題です。もし立憲・公明党が第一党になるとすると、誰が総理になるのでしょうか。おそらく、過半数はいかないでしょうから、連立ということになるでしょう。すると、野田、斎藤のどちらを立てても協力は得られません。すると玉木総理で妥協するという結果になるかもしれません。もしくは自民党と連立を組んで野田総理で妥協するか・・・。それとも斎藤総理で妥協するか・・・。どちらも考えにくいですが、政界は一寸先は闇ですから、何が起きるかわかりません。
大臣ポストになるとさらに予想できなくなります。幸い、政策については大体予想できます。従来の立憲の主張が通ることになるでしょう。一時的減税、平和主義、中国との融和、アメリカとの適度な協調などでしょう。ただ、野党の時代に大災害が起きるというジンクスがあるので、災害には注意が必要です。
脱炭素ではなく省エネを
トランプ大統領が国連で「地球温暖化は起きていない」と発言したことは、やや誤解を招く危険性のある発言ではあるものの、その趣旨は正しいことは確認されなければなりません。現在地球は100年前から1度上昇していることは誰も否定していません。しかし、東京では4度も上昇しています。ヨーロッパもそのくらいは上昇しているでしょう。なぜ文明国だけが上昇しているのかを検討もしないで、脱炭素を主張するのは本当の原因を知られたくないからなのかと勘繰りたくなります。真の原因はエネルギーの使い過ぎなのです。その証拠はあちこちにありますが、日本人はかつては正しく認識していました。ですから、かつては省エネが叫ばれていたのです。ところが国連から勧告が来てからはSDGsと称して、脱炭素に舵を切りました。それでおかしな方向に進み始めたのです。
数か月前のニュースですが、フランスで川の温度が上がって農作物に影響がでるほどになったので、原発の稼働を抑える政策がとられたとのニュースが流れました。今やフランスはドイツにも電力を供給しなければならないので、原発がフル稼働しています。すると排熱処理のために川の水を使うので、川の温度が上がるのです。フランス国内の50基にのぼる原発を冷やすのですから、大変な熱量であることがわかります。それが川の温度を上げるだけで終わるはずがありません。フランスの気温そのものを押し上げているのです。
ニュースにはなっていませんが、中国も同じことではないでしょうか。中国では石炭火力が中心なので電気代が安く、太陽光パネル生産、ビットコインの生産などで多大の電力が消費されています。当然、排熱量は膨大となり地域の気温を挙げています。夏には北京でも東京と同じくらいの暑さになるのはそのためなのです。その暖められた空気が日本にやってきて、さらに日本の膨大な排熱により日本の温暖化を加速させているというのが現状なのです。脱炭素という政策は間違いであり、省エネに舵を切るべきだということは広く認識されなければなりません。
調和級数の公式
調和級数の公式は、すでに「私の発見した数学公式」で紹介していますが、あまり広まらないようなので、この日記にも書いて少し宣伝することにしました。
調和級数 (harmonic series) とは 1 1/2 1/3 1/4 ... 1/n と並ぶ数列です。nを大きくすると 1/n はどんどん小さくなりますが、小さくなる速度は緩やかです。級数全体を合計したものは Σ(1/n) = 1 + 1/2 + 1/3 + 1/4 + ... と書くことができます。nを大きくすると無限大になるだろうという想定のもとに近似式を求めると、Σ1/n = 2.30257,,,*log(n) となります。2.30257...=1/log(e) なので Σ1/n = log(n)/log(e) と書くことができます。
これをさらに厳密にした式が Σ1/n = log(n)/log(e) + 0.577215... となります。この 0.577215...がオイラー定数と呼ばれるものです。これは数学の本に載っていました。
さて、上記の式も近似式なので、近似でない式を求められないかと考えて計算してみたところ、すぐに挫折して諦めました。その後何年もたったあと、Σn^r の式を研究する過程でベルヌーイ数を使うことを発見したので、ならば Σ1/n もベルヌーイ数が登場するはずと思いつきました。そこで再度計算したところ以下の式が見つかりました。
Σ1/n = log(n)/log(e) + 0.577215 + 1/2n - 1/12n^2 + 1/120n^4 - 1/252n^6 + 1/250n^8 - 5/660n^10 + ...
これをベルヌーイ数で表記すると
Σ1/n = log(n)/log(e) + 0.577215... - B(1)/n - B(2)/2n^2 - B(4)/4n^4 - B(6)/6n^6 - B(8)/8n^8 ...
となります。
単にベルヌーイ数が並ぶだけでなく、符号まで統一されるとは綺麗ですね。この式が正しいことの証明は「私の発見した数学公式」HPの調和級数のところに載せてありますが、計算上も誤差がないことも確認してあります。簡単な式なのに、階乗の公式や Σn^r の公式よりあとに見つかったのはそれだけ見つけにくいということなのでしょう。
ちなみに、ベルヌーイ数とは B(0)=1, B(1)=-1/2, B(2)=1/6, B(4)=-1/30, B(6)=1/42, B(8)=-1/30 と並ぶ数列のことで、教科書にも載っているので、ここで説明する必要はないでしょう。私はこのベルヌーイ数を B(1000) まで計算してあります。
構造が簡単なので高校の教科書にも載せてもらいたいと思っているところです。
本田圭佑さんの「南京虐殺否定」投稿’(後に撤回)について
本田圭佑さんの「南京虐殺否定」(8月8日xでの投稿。のちに撤回)が波紋を呼んでいますが、日本でほぼ定説となっている意見を言うだけでバッシングとはいかがなものでしょうか。ただ、中国では南京虐殺記念館があり、多くの参拝客を集めているので、中国に向かって「南京虐殺はなかった」というのは失礼かもしれないという現実があります。しかし、中国は日本に向かって失礼なことを遠慮なく言ってくるわけですから、お互いさまではないでしょうか。
ここは冷静になって事実を確認しておくことです。南京虐殺については、あったという直接証拠も、なかったという証拠もありません。このことが初めて話題となったのは東京裁判のときであり、それ以前も、以降も、この事件についての蒋介石政権からの言及はありません。中共政権でさえも1970年以前には話題にしていません。南京虐殺記念館ができたのは1985年のことであることが示しているように、比較的最近のことなのです。
日本において南京虐殺がなかったという議論が始まったのは山本七平による本多勝一批判からでしょう。東京裁判の結論を批判することは長らく日本ではタブーとされていたので、南京虐殺がなかったとは言えない雰囲気がありました。しかし、朝日新聞社記者本多勝一が「中国の旅」で報じた内容があまりに過激だったので、そんなことはないだろうと思う人が現れたのです。調べてみるとあまり虐殺の証拠がないということが明らかとなり、かなりの数の研究書が出版されています。その結果、今では多くの人が「虐殺というほどではない」とか「なかった」とか言うようになっているのです。
終戦直後の中国人が言わない事件ですから、大きな事件がなかったことは明らかです。しかし、今の中共政権は声高に主張して、虐殺記念館まで建てているので、メンツもあることは認めてあげなければなりません。この問題を話題にすることは日中友好に水を差します。ですから、これについては未来の歴史に委ねるのが賢明だろうと思います。中国人は偽物の資料や、写真を持ち出して、虐殺はあったと主張しますが、感情的反論はせずに放置しておけばいずれ真実が明らかになることでしょう。
たしかに殺人事件があった可能性はあります。それは戦中の毎日新聞か報道している百人切り競争です。日本兵が日本刀で中国民間人を切り殺すという報道で、常軌を逸していますが、これが東京裁判で取り上げられて、報道されたふたりの日本兵は処刑されています。この殺人事件の現場は南京ではないのですが、東京裁判では南京事件の一環として扱われ、南京虐殺があったということにされてしまったわけです。この百人切り競争が本当にあったのかどうかも大問題ですが、これは南京虐殺事件とは関係ないことがまったく認識されてないことはどういうことでしょうか。また、おそらく、南京虐殺記念館ではこの百人切り競争は取りあげられていないのではないかと思うのですが、どうなのでしょうか。なぜなら、この事件は上海から南京に向かう途中の事件だからです。しかし、これが南京虐殺の唯一の証拠として認められたところが東京裁判のいい加減さの表れということになります。また、このいい加減さこそが南京虐殺がでっち上げであることの証拠となるのです。
このようなことを中国側に言ってはなりませんし、言う必要はありません。また、虐殺記念館を非難する必要もありません。冷静になってすべては歴史に委ねるという態度こそが日本人に相応しいのです。
人間は情報量の増加についてゆけない
人間の頭はバケツのようなもので、ある量の情報が入ると一杯になってしまう。これは大学教授であれ、どんな天才であれ同じことで、そのバケツの大きさが違うだけなのです。しかも、そのバケツに入れる蛇口は人によって大きいもの、小さいもの、いろいろです。
人によっては幾つもの蛇口を持つ人がいます。さらに、それらの蛇口をひねるかどうかは人によって異なります。結果的にバケツに水がたまってない人がたくさんいることになります。そしてそれを非難することはできません。なぜなら人間とはそういうものだからです。
サラリーマンや労働者が朝から晩まで働いていて、どうして情報をまんべんなく集めることができるでしょうか。バケツをいっぱいにする時間がないのです。一方、大学教授はどうかと言うと、授業で忙しく、会議にも出なければならないので、研究して情報を集め、考える時間が充分にあるわけではありません。天才ならばと期待したいところですが、人間である限りバケツと蛇口の量は有限てあり、情報は無限ですから勝負になりません。
このような現実を造られたのは天地創造の神であると私は受け入れています。人間は有限であり、真理を悟る力などはじめからないのです。これをキリスト教では罪と言いますが、悪い意味で言っているわけではありません。それが現実であり許されている、つまり非難できないということです。受け入れるしかありません。真理だ、科学だと言いながら間違ってしまうのです。そしてそれは人間ですから仕方のないことなのです。許さなければなりません。ところが、人間は罪人ですから、そのレベルの真理を語る人を陰謀論だとか、馬鹿野郎といって罵倒します。それも人間の現実ですから受け入れるしかありません。神はそういう人間世界とは無関係に、出来事を起こし、神の人を起こし、歴史を動かします。すると社会は人間の予想とはまったく異なる方向へと発展を遂げることになります。人間の未来予測は必ず外れます。そして、その外れるという予測さえも外れるというところがすごいことです。人間が神を掴むなど絶対にできません。そういう現実の中で神の側から人間に手を差し伸べてくださっているところに救いがあります。現実を受け入れなさいということです。罪人のままで良いということです。人を非難しないようにしなさいということです。すべてはキリストの贖いにより赦されているのですから、残されたなすべきことがあるなら、それは喜ぶこと、感謝すること以外にありません。
参政党の躍進を祝って
今回の参議院選挙で参政党が躍進したことはたいへん嬉しいことで、今後の活躍に期待しているところです。
私は参政党結党より前から神谷氏のことを知っていました。YouTubeで神谷氏のやっている番組が私の関心あるテーマと一致していたので時々見ていました。すると、あるとき、突然、政党を作るということになり、名前が参政党で、これからの日本を変えてゆくという大変な意気込みでした。私は彼の政治的見解のすべてに賛同したわけではありませんが、他の政党がどこも言わないワクチン反対を唱えていたので、全面的に支持することに決めました。当時、党員になることも考えたのですが、政党というものは大きくなると変質することもあるし、お金をだすことは差し支えないのですが、ポスター張りとか、街頭演説のお手伝いとか、いろいろ肉体労働をしなければなりません。そこまでの体力がないので、単なる支持者という立ち位置に留まることにしました。その後、ゴレンジャーの解体により、私の尊敬する武田邦彦先生が神谷批判に転じ、私も参政党から離れようかと思いましたが、反ワクの政党が他に無いので、やむなく参政党支持を続けているのが現状です。
今回の参政党躍進は反ワクという観点とは無関係で、従来の自民党保守派が流れて来ただけで、今後、参政党が自民党化する危険性が生じています。おそらく反ワクについて発言することは減ってしまうでしょう。それは大問題ですが、しかし、世論・マスコミの現実の中で反ワクはまったく広まっていません。すでにコロナも沈静化して、話題として古くなっているからです。しかし、問題は残っています。これを穿り出すことを参政党に期待することはもう無理だと思います。これからは、参政党などには頼らず、反ワクの世論形成のために、なんらかの活動を展開してゆかなければならないという考えにたどり着きました。
反ワクという単語を使うだけで、陰謀論と批判される現実の中で、反ワクを唱え続けることは容易ではありません。すでに世の中の流れは先に進み、ワクチン問題が過去のテーマになっています。また、反ワクという言い方そのものも誤解を生む要素を抱えています。反ワクとは、すべてのワクチンが良くないと言っているわけではないのです。新型コロナに使われたmRNAワクチンがまだ充分に検証されてないことに問題を提起しているのです。反ワクの論者の間にも意見の違いはあるでしょうが、私の場合はもっぱら新型コロナとの関連だけで反ワクを唱えています。その他のワクチンについて別途議論が必要だということです。
そして、新型コロナがすでに沈静化したと見られている今日、ワクチンも使われなくなっているので、多くの人にとって過去の問題になっています。しかし、この問題と同じことが将来起こる可能性があるので、しっかりと反省しておかなければなりません。その反省がなされずに時代が進んでゆくことはおおいに問題だと言えます。
新型コロナとワクチン問題は多くの論点があるので、ここでは書ききれません。いずれ、どこかで問題点を纏めたいと思っていますが、ここでの結論としては、今後、もはや参政党には頼らず、たとえ犬の遠吠えになろうとも、言論において反ワク活動を続けてゆくことを決意しています。