燔祭(ハンサイ)を「焼き尽くす献げ物」と訳してはならない

雑誌「みるとす」09/6月号に曾野綾子さんの「天に昇る煙」と題する一文が載っていました。鋭い発想の持ち主で啓発されることも多いので期待して読んでみたところ、残念ながら逆の意味で大変刺激を受けました。というのは、私の解釈とは異なる説明がなされていたからです。

内容はエルサレム神殿における動物犠牲のやり方の問題で、彼女は犠牲の動物をすべて焼き尽くして灰にするのが燔祭であると述べています。たしかにそういう説もあるし、そもそも新共同訳聖書が「焼き尽くす献げ物」と訳しているので彼女を非難するわけにはいきませんが、かなり重大な誤解なので何とか正しておかなければならないと考えています。

かつて述べたこともあるので、同じ内容になってしまいますが、燔祭とはヘブル語でOLH(オーラー)、英語では burnt offering です。ヘブル語の語源はOLHという動詞で、「煙を立ち上らせる」という意味です。これを「焼き尽くす献げ物」と訳すのは意訳であり、解釈が含まれています。もし、この解釈が正しいなら問題はないのですが、間違っているとするなら責任は誰が取ってくれるのでしょうか。論争のあるテーマであるなら、意訳は避けて原語のニュアンスに忠実に訳すのが翻訳ではないでしょうか。英語はその原則に則り burnt offering となっているのです。

燔祭(ハンサイ)を「焼き尽くす献げ物」と解釈するのはレビ記の誤読から来ているのですが、この部分のギリシャ語訳が「ホロコースト」になっていることからくる誤解でもあります。それが誤解であることを説明するためにはレビ記を解説しなければなりませんが、それでは長くなりすぎるので、ここではやや簡略に説明することにすると、原語で「丸焼きにする」と書かれているのを「全部焼いて灰にする」と解釈するような過ちであるということです。「丸焼きにする」とは、もちろん食べるために焼くのです。ところが「焼き尽くす」と訳してしまうと「食べない」ことになってしまいます。これは大変な違いです。いったい燔祭として献げられた動物は食べるのか、食べないのか・・・という問題です。新共同訳の訳者は「食べない」と解釈しますが、1頭の動物という貴重な食料源を食べずに灰にするということがあり得るでしょうか。これは常識的に言って「ありえない」と断言することが出来ます。

ごくまれに1頭だけなら灰にすることも「無い」とは言えません。しかし、燔祭とはごく普通の動物犠牲のやり方で、エルサレム神殿では一日に何百頭もの動物が燔祭として捧げられます。それらが全部食べずに捨てられているなどと考えること自体がバカバカしいことであり、どうして「焼き尽くす」という解釈になるのか、私には理解できません。

創世記8章でノアが洪水の後、神に対して燔祭を献げる記事があります。神礼拝とは共に食事をすることであり、このとき、捧げられた動物は参加者一同に食べられたはずで、灰にしてしまっては礼拝が成り立ちません。ところが新共同訳はここも「焼き尽くす献げ物」と訳してしまっています。あきれてしまいますね。

日本の旧約学者はなぜこのような過ちを指摘しないのでしょうか。常識がない・・・というか、人材不足なのでしょうね。