燔祭について (その2)

レビ記を読んで、「燔祭」とはやっぱり「焼き尽くす」祭りなのだと思う人もいるようなので、さらに詳しく説明しておきます。

新共同訳の「焼き尽くす献げ物」という単語を「燔祭」、もしくは「丸焼きの献げ物」と読み替えて解釈してください。いったいレビ記が動物を焼いて灰にしてしまおうとしていうるのか、それとも食べるために料理しようとしているのかを読みとる必要があります。

まずレビ記1章ですが、6節で「牛の皮を剥いで、体を各部に分割する」と書かれています。なぜ「皮を剥ぐ」必要があるのでしょうか。もし燃やして灰にするなら皮を剥ぐ必要はなく、また各部に分割する必要もあります。皮を剥いで切り分けるのは、もちろん、あとで食べるためなのです。

9節を「その全部を祭壇で燃やして煙にする」と訳していますが、「全部」とは「切り分けた各部」のことで、「煙にする」とは「良く焼く」ということです。この文章のどこにも「焼き尽くす」というニュアンスはありません。むしろ、「料理して食べる」というニュアンスがあるのです。

食べない物については「灰捨て場に捨てる」と表現されていて、頭、脂肪、内蔵などは焼くように指示されていると言うことは、「料理せよ」という命令なのです。

6章23(16)節に全焼祭(KLYL)という単語が登場します。これこそ「焼き尽くす献げ物」という訳語がふさわしいのであって、新共同訳ではOLHもKLYLも「焼き尽くす」という意味になってしまい、混乱が生じています。

また、民数記28:3では、「毎日、朝夕に燔祭を捧げなさい」と命じられていますが。これが食べるためでなく、灰にするための動物犠牲なのでしょうか。「上等の小麦粉と上等のオリーブ油」も燔祭とされていますが、これも「灰にして焼き尽くす」ために献げるのでしょうか。あり得ないことは明らかです。聖書翻訳者はどうしてこの程度のことが判らないのでしょうか。