新共同訳における「メシア」という訳語

新共同訳聖書の問題事例をひとつ思い出しました。

共同訳は評価が高く、私も時々参考にしています。全体的には悪いとは言
えません。しかし、前回指摘した「焼き尽くす献げ物」もそうですが、
福音書における「メシア」という訳も首を傾げたくなるところです。

福音書全体を検討していませんので、もしかしたら福音書内では一貫して
いるのかもしれませんが、新共同訳ではギリシャ語でキリスト(xristos)
となっているところを、イエス・キリストという名前を除いて、多くの箇
所で「メシア」と訳しています。

たとえば、ヨハネ1:20で、バプテスマのヨハネ
「私はメシアではない。」と述べています。もちろん、
ギリシャ語では「キリスト」となっている箇所です。
その他、ルカ3:15とか、結構沢山あります。

一体、どういう意図で、「キリスト」を「メシア」と訳出したのでしょう
か?

「ヘブル語とギリシャ語の違いだけで、意味の違いがない」と言えば、そうな
のですが、ならば素直に「キリスト」と訳出すべきではないでしょうか。
個人訳ならまだしも、新共同訳聖書は公の聖書ですから、この訳は行き過ぎ
のように思えてなりません。

ヨハネ1:41で「メシア」という単語がありますが、これはギリシャ
原典で「メシア」になっている箇所です。このような、「メシア」の箇所
と、「キリスト」の箇所が、日本語訳で区別できなくなることは、拙いの
ではないでしょうか。

どう考えても、私は納得できません。

新共同訳への信頼がかなり揺らいできています。