旧川越街道の出発点

先日、散歩の途中に板橋区郷土資料館があったので訪れていました。縄文から弥生、古墳時代にかけての土器や勾玉、人骨などが多数展示されていて、古代板橋が思いのほか人口の多い繁栄していた地域であることがわかりました。ふと、以前から疑問になっていたテーマを思い出したので学芸員の方に質問してみました。旧川越街道がときわ台から上板橋にかけて途切れているのはなぜですか?下頭橋からときわ台への道はまっすぐでよくわかるのですが、その先が途切れてしまいます。そして、少し離れた場所から上板橋方面にまっすぐ道が繋がります。途切れるのはありえませんから、どうなっているのか?と疑問に思っていたということです。学芸員の方は古い地図を持ち出してきて、旧川越街道の問題の個所は、下頭橋から左に上がってゆき、そこから今の川越街道の場所をとおり上板橋に抜けていると教えてくれました。その地図をよく見ると、江戸時代において、下頭橋からときわ台方面へのまっすぐな道はなく、左に上る道しかありませんでした。その道は私も知っていましたが、やや細めの目立たない道です。ときわ台に抜ける道はまっすぐな立派な道路です。てっきりまっすぐな道こそ旧川越街道だと思い込んでいました。その思い込みは間違っていたようです。学芸員の方には大変感謝した次第です。

 

ところで、もうひとつ問題が発生しました。私は、旧川越街道の始点は板橋宿だとばかり思っていました。しかし、地図を見ると旧川越街道は東上線大山駅のすぐそばを通り、平尾追分に抜けると表示されていました。古地図にそうなっているのだからそうなのだろうと思って、その時は深く考えずに納得して家に帰りました。しかし、一晩ボーと考えていたところ、地図上の平尾追分の場所には現在何の目印もなく、現在の中山道と旧中山道の交差点であり、上は高速道路が走っています。もし、そこが旧川越街道の始点であるとするなら、何らかの痕跡が残っているはずですが、殺風景で何もそれらしきものがありません。それに対して、板橋宿はそこから歩いてわずか3分ほどの場所ですが、旧中山道と王子新道の交差点であり、今では板橋区役所まであります。そこから旧川越街道が発しているとすると、そのまままっすぐに地図上の旧川越街道に繋がっています。しかも、私の拘りは、その繋がりがまっすぐで自然であるということです。平尾追分に抜ける道はそこからやや上に曲がる道になります。まっすぐに繋がり由緒ある場所に到達するのか、不自然に曲がって、あまり目印のない場所に達するかと考えると、どうしても王子新道に抜ける道こそ旧川越街道であるはずという思いが湧いてきました。

そこで次の日、思い切ってもう一度郷土資料館に行き、私の見解を問いただしてみることにしました。昼過ぎに資料館に到着したのですが、昨日の学芸員の方が出てこられて、とても親切に私の話に耳を傾けてくださり、さらに多くの古い資料を探し出して見せてくれました。その中には明治時代の古地図も含まれていました。それを見ると、何と! 王子新道は描かれていませんでした。明治の初期には道はなかったのですね。どうりで「王子新道」という「新道」という名前が付けられたのですね。その意味がそのとき初めて分かりました。とすると、江戸時代には王子新道はなく、板橋宿の場所はそれほど重要な分かれ道と言うことではなくなります。しかも学芸員の方のご指摘によると、まっすぐに見えた道は江戸時代の上水の跡だとのことで、ますます分が悪くなりました。大変感謝して・・・心の中では恐縮して・・・そこを後にしたのですが、学芸員の方はとてもよく勉強されていますね。感心しました。また、古地図を残しておくことはとても大切であることがわかりました。やはり古地図に描かれているのですから、反論はできませんね。

結論: 旧川越街道の始点は今の中山道と旧中山道の交差する場所にあり、そこから、四ツ又交差点をへて、遊座大山ロード、東上線大山駅、ハッピーロードを通り、今の川越街道に達することがわかりました。

なお、私のもうひとつの関心ごとは、天海和尚と春日局です。この二人と明智光秀とがどのような関係にあり、なぜ家康はこのふたりを登用したのかは歴史の謎を解くカギになると思います。このテーマについてはこれからも掘り下げるつもりですが、ふたりが旧川越街道を歩いて、もしくは籠や馬にのって何度も通ったと思うと、ひとときの間、過去へのノスタルジアに浸ることができます。