「身近にあるフェイクニュース」東京くらしねっと、1・2月号

「東京くらしねっと」令和4年、1・2月号 を図書館で手に取りました。「身近にあるフェイクニュース」という記事に目が留まったので読んでみました。わかりやすいし、短いので啓蒙としては良い文章だと思いました。ただし、議論がこれで終わるわけではありません。問題は「フェイクニュースだ」と言ってくるフェイクニュースがあるということです。気に入らない記事があると自分の主観を基準にして「フェイクニュース」と相手を罵倒する人がいます。「非国民」、「変態」、「テロリスト」などの罵倒語のひとつになりつつある現状を認識する必要もあるのではないでしょうか。

ある情報が事実であるかどうかは微妙な問題であることは多々あります。国や権威ある機関が間違っていることも多々あります。フェイクニュースを判定する人自身がはたして確実な情報を持っているかどうかは、実際上、はなはだ疑問であることがあるのです。こういう中で、フェイクニュースに気を付けると同時に、フェイクニュースとの批判もまた間違っていることがあることも念頭において、冷静に対処すべきだということです。最後には自分の主観に頼らざるを得ませんが、自分の判断もまた主観に基づいていることを自覚して、いろいろな人の意見に耳を傾けながら、場合によっては自説を撤回することもあるでしょうし、最後のひとりになっても自説に固執することもあって良いわけです。相手もまた、そういう精神の遍歴をすることを許しつつ、議論・論争のダイナミズムを認識して、自分もその一員として加わっていることを自覚したいと思います。

なお、この「東京くらしねっと」の記事でさえもフェイクニュースとは言えないまでも、不正確な内容があるのであって、文章を書くとか、自己主張するというのはなかなか難しいということがわかります。「深く息を吸って10秒我慢できれば、新型コロナウィルスに感染していない」と言うことをフェイクニュースの筆頭に挙げていますが、これは実害のない情報であってフェイクニュースと言うべきものではありません。「体温が37度以下ならコロナではない」というのと同じで、素人判断としては良いやり方であって、10秒我慢できないとか、37度以上あるなどの体調なら、それこそ保健所に行くことも考えてよいことになるわけです。山口教授の説明をフェイクニュースと言うつもりはありませんが、事例が適切でないと言うことはできます。

また、「メタノール云々・・・」の文章は、「亡くなる方が800件以上」と書いていますが、日本国内か、世界全体でかの説明がなく、また、何年の統計なのかも書かれていないわけで、こういういい加減な情報を大げさに載せるのがフェイクニュースの常とう手段なので、それをフェイクニュースに注意喚起する人が同じ手段を使うというのはどういうものなのかなと思うわけです。

啓蒙的意義があることは認めますが、そういう文章の中にもフェイクニュース的要素が含まれるという事実の中に、フェイクニュース判断・評価の難しさがあるということを思い知らされています。