財政健全化か? インフレ2%目標か? (その3)

(前回の続き)

前回は大雑把に考えた結論を書きましたが、あまりに大雑把なので現実的ではありませんでした。しかし、さらに厳密に考えるにはあまりにも知識が足りません。今回も大雑把な話になることをおゆるしください。

「家計と国家財政は違う」という話を聞きますが、これはおかしいと思います。赤字国債の垂れ流しの責任逃れにしか聞こえません。やはり財政健全化は必要です。これは大前提です。しかし、現状では健全化しようがないほどすでに赤字が膨らみ過ぎています。今更、健全化を叫んでも虚しいというか・・・、火が燃えているのに、火事に気を付けましょうと叫んでいるようなものです。こういう現実ではインフレ派の提案のほうが妥当なわけで、赤字国債を許容しつつ、経済を活性化させて、なんとか軟着陸を目指すということになるのでしょう。

しかし、インフレ派の大問題は、過去8年間それでやってきて、何ら経済成長していないという事実があります。同じやり方を続ける限り、同じ結果になることは目に見えています。経済成長を目指すことはまったく正しいと言えます。しかし、赤字国債を発行して経済刺激策をとっても、経済成長しない現実への反省は是非とも必要です。経済学者からの何らかの提言が今必要となっています。

ど素人の私がいろいろ考えても意味ないかもしれませんが、基本的な国力・国民力がないと経済刺激策だけでは経済成長は望めないのではないでしょうか。ノーベル賞をとった真鍋教授が言うとおりなのです。青色ダイオード発明の中村さんもアメリカに行ってしまいました。日本人が基本的に優秀であることは誰でも認めるでしょう。しかし、その能力が日本という環境では発揮できないのです。

ここから先の話はあまりに個人的見解なのでここでは言いませんが、日本には革命が必要です。精神革命が必要です。政府を変えるのではなく、国民精神の変革が必要です。欧米の猿真似をやめて、自分の頭で考え、自分の足で立つ文化を構築しなければなりません。その精神革命が成就したとき、初めて日本の成長が始まるのです。

 

財政健全化か? インフレ2%目標か? (その2)

(前回の続きです。)

 

さて、財政健全化派の問題点は、すでに現在1200兆円もの赤字が目の前にあるので、まずこれをどうするかを議論しないことには財政健全化にならないことです。屁理屈の次元ですが、国民の金融資産をすべて税金として巻き上げるとちょうど政府の赤字がなくなります。これで財政健全化達成ということになりますが、国民の反対と不満は頂点に達するでしょう。国民を不幸にする財政健全化など必要なのかという気持ちになります。しかし、それでも個人の収入は変わらないのですから、貧乏人だけでなく、金持ちにとっても、当面生きてゆくことに不便はありません。ただ、その後も税金の枠内での政府予算が建てられるので、福祉、公共投資などへの支出は減らされるでしょう。ならば赤字を垂れ流すほうが良いという気持ちになるのも仕方ありません。

つまり、財政健全化という主張は、当面の実行性がないばかりか、それが実現したあとでも国家展望が開けないことです。

こういう論理の袋小路に突き当たるとき、土俵自体が間違っていることがあります。家計の場合、収入があって支出があるのですから、収入が少ないときは支出を減らすということになります。財政健全化のためには、「赤字国債を発行しない」ということだけでなく、どうやって支出を減らすかを議論しなければなりません。その議論をせずに財政健全化を主張しても、あまり意味はないように思います。福祉を減らすか、補助金を減らすか。この議論は国民の間での意見の違いが大きくて、激しい理解対立を生み出し、選挙に不利なテーマなので、議論したくないと政治家は考えるのでしょう。評論家も同じでしょう。家計の場合は、夫と妻が話し合って、狭い家に引っ越すとか、車を売るなどの決断をすることになります。しかし、政治の場合は、なかなかそういう決断ができないようです。

ただ、ひとつだけ財政健全化論の良い点は、国民がどういう不利益を自ら甘受するかを国民自身が議論するきっかけを与えてくれることです。

さて、財政健全化論と2%インフレ論を比較したうえでの暫定的結論ですが、当面、インフレ目標論でやってゆくしかないでしょう。どこかで破綻するでしょうが、財政破綻が現実化しないことには国民は受け入れられません。逆に言うと、破産という現実を目の前にして、ようやく国民は別の道を選択することが可能となります。崖に向かっての一本道ですが、落ちた後また這い上がる力はあるはずです。慎重に考えて後戻りするより、崖から落ちて這い上がるほうが未来があるように思います。

 

 

 

財政健全化か? 2%インフレ目標達成か?

私は経済学を専攻してないので、まったくの素人考えですが、先の文芸春秋11月号の矢の論文を読んで少し考えてみたことを書き込んでおきます。

日本経済については、この8年間、安倍政権が2%インフレ目標を掲げて、頑張っているのを見て、景気も少し良くなったように思えたので良い政策だったのかと思っていました。しかし、昨今、日本が他の国に比べると貧困化しているという指摘がなされるようになり、この8年間経済成長はしていないということを教えられました。とすると、景気が良いと思ったのが間違いだったのか、それとも、成長しなくても問題ないということなのか?という問いを自問することになりました。

総裁選では高市候補がアベノミクスを継承することをうたい、ネットの熱い支持を受けていました。財政出動を大胆に行うべきだとの主張は多くの賛同を得ています。

ところが一方で財政健全化を主張する意見もあります。ネットでは弱い勢力なのですが、先日の文芸春秋11月号で矢野氏が財政健全化を主張する論文を発表したところ、ネットでは大反対の声が上がり、矢野バッシングの状況になっています。論争では弱い立場のほうが感情的になる傾向があります。今までアベノミクスを支持してきましたが、この際、もう一度勉強しなおして、財政健全化派と2%インフレ目標派のどちらが正しいかを検証してみることにしました。

経済学ど素人ですから、正しい結論に到達する保証はありませんので、まずは仮の結論を出してみて、その上で、多くの方から教えていただきながら、さらに考えを進めたいと思っています。

まずは私の理解できたところから始めさせていただきます。財政健全化派の言い分によると、赤字国債の発行はなるべく避けるべきだということです。その理由は、将来、金利が上昇したとき、国債の借り換えのために発行する国債金利が上がり、予算の大半が国債償還金利に使われることになり、健全な財政にならず、財政破綻となってしまうということです。

これに対する2%インフレ派の論理は、国債を買っているのは日銀なので、金利収入も日銀の黒字になり、追加国債発行が政府全体でみると赤字にならないというものです。この説明は私の言い方なので、もしかすると別の説明にすべきかもしれませんが、その点は今後さらに勉強する予定です。

国債を償却するする必要はないという主張もあり、ベイシック・インカムという主張もあり、全体を理解するのはしんどいので、ここで自分なりの原点に戻り、非常に素朴に考えてみました。

つまり、赤字国債は問題ないということであるなら、理論上、すべての税金を廃止して国債だけで国家運営をすればよいということになるのではないでしょうか。国債はすべて日銀が引き受けて、札を刷りまくるのです。するとどうなるでしょうか?何か問題が生じるのでしょうか?

インフレになる心配が思い浮かびますが、インフレにならない可能性もあります。外国が日本国債の信用ランキングを下げる危険性もあります。しかし、国債はすべて日銀が保有しているのですから、外国の評価は全然問題ではありません。日本人が怠惰になる危険性もあります。しかし、日本人ですから、この程度で勤勉性を失うことはないと信じたいと思います。とくに問題はなさそうです。

しかし、常識的に見て、これが正しいということはあり得ないでしょう。どこかに間違いがあるはずです。

<続く>

ハシジロキツツキ絶滅と認定

ナスジオ日本語版10・8の記事によると、「幻の鳥・ハシジロキツツキが絶滅したと認定された」とのことです。ヤフーニュースに載っていました。

「幻の鳥」ハシジロキツツキ、米国が絶滅と認定(ナショナル ジオグラフィック日本版) - Yahoo!ニュース

全世界に生物の種は1千万ほどで、その中のいくつかが毎年絶滅しているわけで、とても悲しいことではありますが、仕方がないことでもあります。その一方で、どこかで新しい種も生まれているはずで、お祝いしないといけないのですが、ニュースにならないので誰にも気づかれません。

かつては、フクロオオカミ、リョコウバト、ドードーなどが絶滅し、日本ではニホンオオカミ、トキなどがいます。

今後、絶滅種を零にすることはできませんが、なるべく減らすために、人類がなすべきことは発想の転換です。すでに生物種の多様性を守る国際世論は形成されていますが、具体策になるといろいろ利害関係がからんでくるので、進展しているとはいえません。

すでに行われている学校でのビオトープの設置などはすばらしい具体策ですが、各自の家庭で小さなビオトープを作ることは一歩前進だと思います。我が家では、東ベランダ、南ベランダ、西窓のスペース、外階段下のスペースにそれぞれ水槽をおいて、メダカ、ヌマエビ、ミジンコを飼っています。また水草と貝も増やしています。また、その周りには雑草を植えた植木鉢・・・というか、ペットボトルの底に穴をあけて作った土の入れ物を置いて、植物を育てています。熱帯後とか、綺麗な花が咲く植物でなく、あくまでもそこらへんにある自然のものを残すため、観察するために作ったビオトープです。ゲンゴロウなども入れたいのですが、なかなか見つからないのと、すぐに死んでしまうだろうと思って、種類は限定しています。

ベランダの水槽は、夏は暑く、冬は寒いというかなり悪い環境で、そのうえ、エアポンプなしの水草だけ、エサもあげたり、あげなかったりで、生き延びるためにはかなりの生命力が必要です。今まで川や池からとってきた生き物の大半は絶滅してしまいました。カワヒルが絶滅したのはまったくの私の不手際があったからで、大いに反省しているところです。スジエビは絶滅しました。メダカは、かつてたくさんいたのに、なぜか減少中です。ザリガニは他の生物を食い荒らすので、川に捨ててきたことがあります。今春、輪が水槽のなかにヒドラを発見しました。これは数年前にいなくなっていたのですが、復活したようです。プラナリアは元気よく育っています。

こういう水槽の中の生物を見ていると、自然を維持することの難しさ、面白さ、素晴らしさを実感できます。まずはサカマキガイを育てるところから始めてはどうでしょうか。簡単なので楽しいですよ。

今後の目標としては、都会に蝉、カエル、トカゲ、蛇を復活させる活動をしたいと考えています。蝉はまだいますが、だんだん数が減ってきています。カエルは、10数年前までいたのですが、家の前の道路が舗装されたとたんにいなくなりました。ヤモリがいるのがせめてもの慰めです。

植物は動物よりも生命力があるらしく、雑草はコンクリの割れ目から芽をだしています。最後に生き延びるのは植物かもしれませんね。

 

「脱炭素社会」という言い方は妥当なのか?

最近「脱炭素」という言い方をよく耳にします。「いったいこれは何だ?」と言いたくなりますが、そんなことを言うと「勉強が足りない」との反応が返ってきそうです。調べてみると「地球温暖化の原因となる温室効果ガスを削減すること」のようですが、温室効果ガスとは「水蒸気、二酸化炭素、メタン、フロンなど」いろいろあります。おそらく、炭素原子を含むガスが多いので、それらを纏めて排除するということで「脱炭素」と呼ぶことにしたのでしょう。英語で言うと decarbonization とのことです。carbon neutral とも言うはずです。これを日本語に訳して「脱炭素」と言っているわけです。それはそれで仕方ないのですが、それにしても表現が不適切、不明瞭です。炭素とは原子番号6番の炭素のことです。炭素はほとんどすべての物質を構成する基本的原子であり、炭素なしには生命も維持できません。ですから、脱炭素とは人間に死ねというようなものなのです。もちろん、「そういう意味ではない」と言うでしょうが、ではなぜもっと正しい表現にしないのでしょうか。

 

曖昧な表現を許容する精神は、考え方においても曖昧であることを許容することに繋がります。地球温暖化に関する議論には多くのいい加減なところがありますが、そういう人たちだからこそ「脱炭素」といういい加減な表現を許容できるのかもしれません。とにかく、いい加減な考え方はやめて、曖昧な標語は撤回してもらいたいと思います。

 

人類史、迫る初の減少

8月23日日経新聞の記事には衝撃を受けました。今まで地球全体では人口増加は止まらないとばかり思っていて、どうやって人口増加を抑えるかを考えていました。ところが、この記事によると、2064年にピークを迎え、そのときの人口は97億人とのことです。なんと!!! 100億を超えないのか! という感じです。

中国、インドの人口増加が止まることは予想できていましたが、アフリカでの人口増加は止まらないというのが従来の見解でした。止まるとするなら200億くらいかなという推測でしたが、97億とは少なすぎます。

人口抑制しなくても増加が止まる理由は「女性の教育と社会進出」とのことです。子供を作っている暇がなくなるということのようです。増加しすぎるのも問題ですが、減少するのも問題ですね。新しい問題を突き付けられました。

 

「悪事千里を走る」の教訓

「悪事千里を走る」というのは中国の古典にある言葉なのかどうかは知りませんが、驚くほど人間の心理をとらえていますね。悪いニュースは新聞テレビのない時代でもあっという間に千里を走ります。ところが良いニュースはその地域で共有されるだけですから、一里くらいは走るということでしょうか。

こういう現実は今でも同じです。誰かが倒れている人を助けてもニュースにはなりません。しかし、その人が人を殺せばニュースになるのです。どこかのパン屋がおいしいパンを発売しても自費で宣伝しなければなりません。しかし、もし毒入りパンを売ってしまったら、連日あらゆるマスコミが報道することになるでしょう。こういう現実は、嘆いても仕方ありません。受け入れて、こちらがわが対策を取らなければなりません。精神的対策です。

新聞は白紙で発行することはできません。何か文字を入れなければならないのです。また、印刷費、取材費、人件費などがあるので、売れる新聞を作らなければなりません。そのためには良いニュースを書いてはいけないのです。なるべく悪いニュースを集めてきて並べると、とてもよく売れます。「最近火事のニュースが多いね」などと言っている人がいましたが、それは大事件がないので、火事のニュースを流しているのであって、火事はあちらこちらで毎日起きているのです。火事とか、自殺、交通事故などのニュースがあるということは、ほかに大事件がなかったと理解すべきです。新聞社は、日本国内で事件が少ないときは、外国の災害とか、大事件を報道します。火事とか、外国の災害ニュースなどが流れるときは、「あまり悪いニュースがないのだな」と受け取るのが正解なのです。

良い出来事は毎日起きています。ただ、それがニュースにならないだけです。たとえニュースになっても、大きく取り上げられることはありません。悪い事件のニュースを読みながらも、どこかで良いことが起きていることを信じて、情報のバランスを自分で取らなければいけないということです。